このページでは、傍記録という位置づけで、自己の失敗から学んだ内容を書き残しています。それは過去の自分の反省であり、未来の自分に対しての戒めです。そのため、少し回りくどい表現になっているかもしれません。
それから、もしもどなたかが私の失敗をもとに成功の方法を見つけてくだされば……と一抹の期待を添えて書き連ねています。
親としての教育
2007年11月11日に群馬県生涯学習センターにて家庭教育フォーラム『親でなければできない教育』が開催され、人間性を育むための家庭での教育のあり方と、それぞれの役目について、東京家庭教育研究所専任講師の伊藤美子先生からとても分かり易い話を聞く機会に恵まれました。
そこで今回は、家庭フォーラムに参加し、学ばせていただいた事を中心に、親としての教育について考えてみたいと思います。
それから、このページで掲載している内容は、子育てに対する答えではありません。あくまで私個人が感じたことであることをご了承くださいますようお願い申し上げます。
子供の年齢が親の体験期間
子供の年齢以上に長い期間を親として過ごすことはできません。
子供と親は一緒の時間を過ごし、そして、一緒に体験を重ねて、一緒に育っていくものなのではないでしょうか?
子供が幼ければ、親も同様に親として幼いということです。
この当たり前のことに気付かされた時、心労が随分と減りました。
親が教育できる分野は限られている
親には、子供を立派に育てたいという欲があります。
知識に優れ、心優しく、社会規範を守り、他人よりも優れた人であって欲しいと願い、そのために教育を行うのだと思っている親もいるかもしれません。
しかし、子供は親の独力では、子供を理想通りに育てることはできないでしょう。
親が教えられる知識には限りがあります。
社会人としての規範を擬似的に体験させてあげることもできません。
それなら、知識の習得は学校に任せ、規範態度は社会(または会社)を通して体験させ、親は子供が幼い時から道徳心情のあるべき姿を自分の行動を通して理解させることに意識を注ぐべきなのかもしれません。
それは、やがては人間性の発露となり、子供の心にとって善悪の基準となるはずです。
善悪の判断基準を社会で学ぶことはできません。
もちろん、学校で学ぶことも難しいでしょう。
学力=人格ではない
しかし、道徳心情を教えることに何の意味があるのか? そう思う時もあるかもしれません。知識に優れ、文武芸弁でありさえすれば、優しさなどは自然と身に付くと思うこともあるでしょう。時には非情さを求められる社会の中では、厳しさを乗り越えるための能力が全てであり、感情的な優しさは無用の長物と思われる場合もあるでしょう。
では、非凡な才能を開花させた時、それが犯罪の手助けとなるような発明であったとして、大多数の人の不幸の上に自らの幸せを築くような子供に育って欲しいと願う親がいるでしょうか? より優秀であることを願うのであれば、その優秀な能力を正しい道に使える大人に育つための最初の一歩こそが、子供の人間性……すなわち、他人の悲しいを自分のことのように受け止め、悪いことをしてはならないと強く感じる心なのではないでしょうか?
それが人格。
学力とは異なる、その人固有のすばらしい才能です。
人格は親しか育てられない
ならば、それほどまでに貴重な子供の人格を誰が育てることができるのでしょう?
それこそが、子供とずっと一緒に居てあげられる親にしかできないことなのではないでしょうか?
子供と親
親の行動が子供の心を育てていると思うと、親の責任を感じることができます。
でも、本当は子供のおかげで、親は子供に育てられているのでしょう。
子供のためと思って繕いながらしている『正しい行動』が、実は親の人格をも成長させる「親としての教育」となるのですから。



